7月1日 中恵庭公園内の忠魂碑の清掃を市役所と協同で行いました。
毎年恒例の恵庭市戦没者追悼式準備のための中恵庭公園内の忠魂碑周辺の整備を、恵庭市役所総務部の職員の方々と連合会会員18名と小雨のなか実施しました。今年も綺麗に整備できました、ご協力ありがとうございました。
今年は新コロナ拡散防止の観点から市民会館での式典は中止となりましたが、7月8日遺族会による忠魂碑前で自由参拝となりました。
隊友会として、例年と同様、国事殉難された337柱の御魂に敬意の念を懐きながら、参拝し年一度の大掃除のお手伝いをしました。
会員みんなで参拝のあと証拠写真を撮り、その後、中庭の草地取りと通路整備(約2時間)を実施しました。市の職員は、忠魂碑を水で流しながら碑のコケ取りなどして、綺麗に清掃をやってくれました。
恵庭市の忠魂碑の歴史を簡単に紹介します。
明治14年明治天皇が御巡幸された当時は、この地域は漁村(80名)と島松村(28名)の人口でしたが、次第に人口も増え明治39年には両村を管内とする「恵庭村」が誕生した。その後島松村、漁村に忠魂碑が設立され、そして昭和15年に恵庭村として中恵庭公園に「忠魂碑」を建立した。第二次世界大戦後にはGHQの指示で各地の忠魂碑が撤去されたが,市民のご尽力の結果、恵庭の三碑は残存することができました。
忠魂碑は,村の「靖国」と呼ばれ,この地から多数の若者が出征し,祖国を思い,家族を案じつつ異国の地で亡くなった人々を供養するものです。合祀された当初の英霊は218柱でしたが,その後満州事変、支那事変、大東亜戦争で戦死された方々を加え、現在337柱の名が刻まれています。
特に明治38年からの日露戦争時、第3軍司令官乃木希典が指揮した旅順要塞の包囲・総攻撃の第1回、第2回の総攻撃で兵力の損耗が激しく、第3総攻撃から第3軍に編入され旭川の7(しち)師団は(道央地域から出征した歩兵第25連隊(札幌白石月寒))白襷隊として、第3夜間総攻撃から加わった。(※旅順要塞は清国の北洋艦隊の基地当時から、引き続きロシア軍の手によって大規模に強化がされ、二竜山・松樹山・東鶏冠山北堡塁などが構成された)大きな成果を得たが犠牲者多数(当初師団1万5千人が5日間の戦闘で約3千人まで減少したと言われる)を出しました。この忠魂碑に刻まれた方のなかにもこの総攻撃に加わった方が大勢いたのではないかと思われます。
犠牲と国民の努力があって,現在の平和と繁栄が成り立っていることを忘れず、先達が祖国防衛のため大切な命を奉げられたご霊前に哀悼の誠を奉げながら、平和を願う市民の史跡として、我々もお掃除を手伝いながら、後世に語り継いで参りましょう。
現存する恵庭市内の忠魂碑
1.忠魂碑(明治41年9月18日建立,恵庭市島松本町「島松神社」境内)
2.皇軍戦没者招魂供養の碑(昭和9年5月建立、大町「大安寺」境内)
3.忠魂碑(昭和14年10月建立,恵庭市上山口「中恵庭公園」内)